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【織田信長公居館跡】
尾張の戦国大名織田信長は、永禄10年(1567)に稲葉山城を占拠、城主の斎藤龍興を追放し、小牧山から岐阜へ本拠を移しました。信長は稲葉山(現在の金華山)の山頂の岐阜城とともに山麓に屋敷を建設します。永禄12年(1569)に岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、山麓の屋敷を「宮殿」と称し、4階建ての壮麗な建物の様子を紹介しています。
発掘調査の成果から、槻谷(けやきだに)と呼ばれる谷の奥に中心施設が存在し、その周辺の複数の平坦地に建物群が立ち並んでいたと考えられます。
B地区平面略測図
B地区全景 ロープウェーから
B地区は槻谷(けやきだに)の一番奥にあります。居館跡の一番奥に位置するB地区には重要な施設があったことが考えられます。
B地区は、下からBⅠ・BⅡ・BⅢ区の3つの地区にわけられます。この地区で見つかった遺構は、出土した陶磁器などから、織田信長が入城した1567年(永禄10)から岐阜城が廃城となる1600年(慶長5)までの時期と考えられます。
平成19年度から発掘調査を開始しましたが、石垣、石組み排水溝、園池遺構、礎石、巨石石組みなどが見つかりました。
BⅠ区は、B区内の西にある一番低い平坦地です。標高は39~42mです。南側と東側に石垣が見つかりました。
BⅡ区はB区の中央にある平坦地です。ここにはポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが書き記した「茶の座敷」があった可能性があります。
BⅢ区は槻谷の東最奥にあります。北側に谷川が流れ、南側には岩盤がそびえ立ちます。ここからは戦国時代の園池遺構が見つかりました。
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