西暦 |
元号 |
年齢 |
出来事 |
1909 |
明治42 |
0 |
六月一九日青森県北津軽郡金木村(現青森県五所川原市金木町)に生まれる。
本名津島修治。
11人兄姉中10番目の六男であった。
父・津島源右衛門、母・タ子、父は地方名士として活躍していた。 |
1910 |
明治43 |
1 |
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1911 |
明治44 |
2 |
子守の近村タケが住み込み女中として津島家に来る。 |
1912 |
大正元 |
3 |
父・源右衛門が衆議院議員に当選する。
津島家の屋号が <やまげん> となる。
弟・礼治が生まれる。 |
1913 |
大正2 |
4 |
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1914 |
大正3 |
5 |
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1915 |
大正4 |
6 |
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1916 |
大正5 |
7 |
金木第一尋常小学校に入学する。 |
1917 |
大正6 |
8 |
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1918 |
大正7 |
9 |
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1919 |
大正8 |
10 |
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1920 |
大正9 |
11 |
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1921 |
大正10 |
12 |
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1922 |
大正11 |
13 |
小学校を卒業後、学力補充のため、四力村(金木と隣接三力村)組合立明治高等小学校に一年間通学。
父・源右衛門が貴族院議員に当選する。 |
1923 |
大正12 |
14 |
父・源右衛門が死去する。
県立青森中学校に入学する。
夏休みに、井伏鱒二の『幽閉』(のち『山椒魚』へ改稿)を読み、感動する。 |
1925 |
大正14 |
16 |
中学の〈校友会誌〉に『最後の太閤』を発表し、これが最初の創作となる。
旧友と同人誌〈星座〉を創刊するが、1号で廃刊となる。
同人誌〈蜃気楼〉を創刊し、編集人兼発行人となる。この頃、作家になることを思いはじめた。 |
1926 |
昭和元 |
17 |
〈校友会誌〉や〈蜃気楼〉に作品を発表する。
三兄・圭治の主導により同人誌『青んぼ』を創刊する
「辻島衆二」このペンネームを使用する。
女中・宮越トキへの恋情に悩む。 |
1927 |
昭和2 |
18 |
〈蜃気楼〉を休刊する。
県立青森中学校を修了する。
憧れの芥川龍之介に倣い、第一高等学校進学を目指すがかなわず。四月、官立弘前高等学校文科甲類に入学する。
七月、作家・芥川龍之介が自殺する。
義太夫にこって女師匠のもとに通い、青森、浅虫の料亭に通う。
九月、小山初代と知り合う。 |
1928 |
昭和3 |
19 |
同人誌〈細胞文芸〉を創刊するが、4号で廃刊となる。『無冠奈落』
同人誌〈猟騎兵〉に加わる。
新聞雑誌部の委員となる。
小山初代(芸妓・紅子)と親しくなる。 |
1929 |
昭和4 |
20 |
二月、『鈴打』を、五月、『哀蚊』を〈弘高新聞〉に発表。(筆名・小菅銀吉)
十月、共産主義の影響を受け、思想的な悩みから、二学期末試験の前夜、カルモチンを多量に飲んで自殺未遂事件を起こす。 |
1930 |
昭和5 |
21 |
東京帝国大学仏文科に入学する。
作家・井伏鱒二に師事する。
共産党のシンパ活動に加わる。
十月、小山初代が家出して上京。そのため、長兄が上京して事を解決し、初代一時帰郷。
長兄・文治から分家除籍を条件に、小山初代との結婚を認められる。
十一月、銀座裏のカフェの女給で夫のある田部シメ子を知り、三日間共に過したのち、江の島袖ケ浦に投身。シメ子は絶命し、自殺幇助罪に問われるが起訴猶予となる。
同人誌〈座標〉に『地主一代』『学生群』の連載を始める。(いずれも署名、大藤熊太)
小山初代と仮祝言を挙げる。 |
1931 |
昭和6 |
22 |
二月、小山初代と同棲して品川五反田に住む。
『朱麟堂』と号して俳句に凝る。
大学へはほとんど登校せず左翼運動を続ける。 |
1932 |
昭和7 |
23 |
落合一雄と称し、淀橋柏木、日本橋入丁堀と住所を転々とする。
兄、文治は太宰に左翼運動からの離脱を誓約すれば、仕送りを継続するという条件を提示。
十二月下旬、青森検事局に出頭、左翼運動・シンパ活動との絶縁を誓約。非合法活動から離脱する。
八月、『思い出』を遺書のつもりで書き始める。九月、芝区白金三光町に移る。 |
1933 |
昭和8 |
24 |
二月、杉並区天沼へ移る 。
同月 はじめて『太宰治』のペンネームを使い始め、『列車』を〈東奥日報〉日曜付録に発表。
三月、古谷綱武、今官一、木山捷平等の始めた同人雑誌〈海豹〉に参加し、創刊号に『魚服記』を発表。この頃、檀一雄、伊馬鵜平(春部)、中村地平等を知る。 |
1934 |
昭和9 |
25 |
五月、同人誌〈鷭〉に『葉』 『猿面冠者』を発表する。
十二月、『ロマネスク』を檀一雄、木山捷平、中原中也、津村信夫、山岸外史等らと始めた同人雑誌〈青い花〉創刊号に発表。1号で廃刊となる。
『彼は昔の彼ならず』 |
1935 |
昭和10 |
26 |
〈文藝〉に『逆行』を発表する。
三月、都新聞社の入社試験に失敗する。
同月、鎌倉山で首つり自殺を図るが未遂となる。
四月、急性盲腸炎の手術後、腹膜炎を併発する。沈痛のためパビナールを用い、以後常習する。
〈日本浪曼派〉に『道化の華』を発表する。
千葉県船橋町(千葉県船橋市)に移る。
八月、『逆行』が第1回芥川賞の候補に挙がるも次席になる。
九月、授業料未納のため東京帝大を除籍される。
太宰の支持者であり芥川賞の選考委員の一人であった佐藤春夫宅を訪問、師事した。
川端康成の『道化の華』評に激怒、十月、『川端康成へ』で反駁。
『玩具』 『雀こ』 『猿ケ島』 『ダス・ゲマイネ』 『地球図』 『盗賊』 |
1936 |
昭和11 |
27 |
『晩年』が刊行され、出版記念会が催される。
八月、パビナール中毒と肺病治療のため赴いた群馬県谷川温泉で、第三回芥川賞落選を知り打撃を受ける。
十月、パビナール中毒を完治させるため江古田の武蔵野病院に入院。自殺もしくは逃亡の恐れがあるということで、閉鎖病棟に入った。この間に初代が小館善四郎が姦通事件を起こす。
退院し、杉並区天沼に戻る。
『めくら草子』 『陰火』 『雌に就いて』 『虚構の春』 『狂言の神』 『喝采』 |
1937 |
昭和12 |
28 |
三月、小館善四郎と妻・初代の姦通を知り、夫婦で水上温泉でカルモチン心中を図るが未遂に終わる。
六月、初代と離別、天沼の鎌滝方に単身移転す。
『二十世紀旗手』 『HUMAN LOST』 『燈籠』 『サタンの愛』などを発表し、随筆以外は書かず、しばらく沈黙を続ける。 |
1938 |
昭和13 |
29 |
本気で文筆生活を志し、『姥捨』を執筆する。
九月、山梨県御坂峠の天下茶屋に行き、長編『火の鳥』の執筆に専念したが、結局この小説は未完に終る。
井伏鱒二から縁談の話があり、甲府に行き石原美知子と見合いする。
十月、《ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全のいっさつ狂人として棄てて下さい》と井伏のもとに一札入れ、石原美知子との結婚を決意。
『他人を語る』 『一日の労苦』 『満願』 |
1939 |
昭和14 |
30 |
石原美知子と結婚し、甲府市御崎町(山梨県甲府市朝日)に移る。
『黄金風景』が『国民新聞』短編コンクールに当選し、賞金を50円与えられる。
東京府北多摩郡三鷹下連雀に移る。
『I can speak』 『富嶽百景』 『女生徒』 『ア、秋』 『デカダン抗議』 『続,富嶽百景』 『懶惰の歌留多』 『秋風記』 『新樹の言葉』 『花燭』 『愛と美について』 『火の鳥』 『葉桜と魔笛』 『ラロシフコー』 『八十八夜』 『座興に非ず』 『美少女』 『畜犬談』 『おしゃれ童子』 『皮膚と心』 |
1940 |
昭和15 |
31 |
原稿依頼も増え、次々に安定した作風の佳作を発表す。
三月、田中英光が初めて太宰を訪ねる。
八月、この頃より、『パンドラの匣』の素材となる日記提供者、木村庄助との文通が始まる。
『女生徒』で北村透谷賞の副賞牌を受ける。
『女の決闘』を完結させる。
伊豆に滞在し、『東京八景』を執筆する。
『駈込み訴へ』 『老ハイデルベルヒ』 『走れメロス』 『俗天使』 『美しい兄たち』 『鴎』 『春の盗賊』 『短片集』 『困惑の弁』 『酒ぎらひ』 『無趣味』 『誰も知らぬ』 『善蔵を思ふ』 『大恩は語らず』 『古典風』 『盲人独笑』 『乞食学生』 『失敗園』 『一燈』 『ある画家の母』
|
1941 |
昭和16 |
32 |
『ろまん燈籠』の連載を始める。
『みみずく通信』 『佐渡』などを発表する。
静岡県に滞在し『新ハムレット』を執筆する。
六月、長女・園子が生まれる。
八月、母・タ子を見舞うため帰郷する。
九月、太田静子らの訪問を受ける。
十一月、文士徴用令書を受けたが、胸部疾患の理由で徴用免除。
『東京八景』 『清貧譚』 『服装に就いて』 『令嬢アユ』 『千代女』 『風の便り』 『秋』 『旅信』 『誰』 |
1942 |
昭和17 |
33 |
六月末頃から点呼召集を受け、突撃訓練や軍人勅諭の暗諦などに煩わされる。
検閲制度が強化され、『待つ』 『花火』が削除される。
母の重態を知らされ、美知子夫人と園子を連れて帰郷。文治との久々の対面を栄たし、義絶も白然解消となった。
十二月、母・タ子が死去する。
『恥』 『新郎』 『十二月八日』 『律子と貞子』 『水仙』 『正義と微笑』 『花火』(初版刊本収録の際『日の出前』と改題) 『禁酒の心』 |
1943 |
昭和18 |
34 |
一月、亡母法要のため妻子同伴で帰郷。他人の日記や史実・伝説などを素材にした作品が多くなる。
『右大臣実朝』などを発行する。
五月、文通を続けていた木村庄助がカルモチンを嚥下して自殺。享年二十二歳。その遺志により、木村が書きためてきた日記を預かる。
木村庄助の日記をもとに『雲雀の声』二百枚を完成させた。
十月、『雲雀の声』が、検閲不許可のおそれがあるため出版を延期。翌年、漸く出版の運びとなったが、印刷所が空襲に遭い発行間際の本が焼失。二十年に発表された『パンドラの匣』作品の校正刷をもとにして執筆されたものである。
『故郷』 『黄村先生言行録』 『鉄面皮』 『赤心』 『帰去来』 『不審庵』 『作家の手帖』 |
1944 |
昭和19 |
35 |
下曾我村(神奈川県足柄下郡)に疎開中の太田静子を訪ねる。
八月、長男・正樹が生まれる。
十一月、『津軽』を発表する。
十二月、情報局と文学報国会の依頼で『惜別』を書くため仙台に赴き、魯迅の仙台在留当時のことを調査。
先妻・初世が死去する。
『佳日』 『散華』 『武家義理物語』『貧の意地』『人魚の海』(以上、『新釈諸国噺』) 『純真』 『髭候の大尽』 『一つの約束』 |
1945 |
昭和20 |
36 |
三月、津軽の実家に疎開する。
三鷹が空襲を受ける。
九月、内閣情報局・文学報国会から依頼された魯迅伝『惜別』(朝日新聞社)を刊行。
『大力』『猿塚』『破産』『赤い太鼓』『粋人』『遊興戒』『吉野山』(以上、『新釈諸国噺』) 『瘤取り』『浦島さん』『カチカチ山』『舌切雀』(以上、『お伽草紙』) 『春』 『パンドラの匣』 |
1946 |
昭和21 |
37 |
六月、長男正樹が急性肺炎に罹り、生死の間を彷程す。
七月、祖母イシ死去、享年八十九歳。
『冬の花火』 『春の枯葉』を発表する。
十一月、疎開生活をやめて三鷹に戻る。
同月、無頼作家の座談会に出席する。
坂口安吾、織田作之助と『改造』の座談会に出席したが、『改造』には掲載されず、その後『文芸、太宰治読本』(三十一年)に掲載される。
坂口安吾、織田作之助、平野謙との座談会〃現代文学を語る"が行われ、翌年四月、『文学季刊』に掲載される。
『庭』 『親といふ二字』 『嘘』 『貨幣』 『やんぬる哉』 『未帰還の友に』 『苦悩の年鑑』 『チャンス』 『雀』 『たつねびと』 『薄明』 『男女同権』 『親友交歓』
|
1947 |
昭和22 |
38 |
太田静子が太宰の仕事部屋を訪問。太宰が静子に日記を見せてほしいと頼む。二月、神奈川県下曽我に静子を訪ねる。この時に件の日記(『斜陽日記』)を借り受け、それをもとに『斜陽』の稿を起こす。
三月、次女・里子が生まれる。
春、山崎富栄と知り合う。
不眠症に悩まされる。
十一月、太田静子に女児誕生。太宰の子である。認知を求める静子の実弟に、太宰は《この子は私の可愛い子》という『証』を手渡し、太宰自ら治子と命名した。
『ヴィヨンの妻』 『トカトントン』 『メリイクリスマス』 『母』 『父』 『女神』 『おさん』 |
1948 |
昭和23 |
39 |
『如是我聞』を発表し、志賀直哉を攻撃する。
三月から山崎富栄に付添われヴィタミン剤を注射しながら『人間失格』の執筆に専念。
熱海の起雲閣に滞在しながら『人間失格』を執筆し、更に大宮市に滞在して、五月に完成す。
『太宰治全集』第1回配本が始まる。
『桜桃』を発表する。
〈朝日新聞〉に連載予定の『グッド・バイ』の校正刷と草稿、遺書数通、子供達への玩具、伊馬春部に遺した色紙などを机辺に残していた。
六月十三日、山崎富栄と玉川上水に入水、奇しくも満三十九歳の誕生日に当たる。
十九日の朝、遺体発見。
二十一日、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二等によって告別式が行われた。
七月、三鷹の黄緊宗禅林寺に埋葬された。法名、文繰院大猷治通居士。
『犯人』 『饗応夫人』 『美男子と煙草』 『眉山』 『酒の追憶』 『かくめい』 『女類』 『渡り鳥』 『家庭の幸福』 |
1949 |
昭和24 |
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未発表作品集『地主一代』全十二巻が刊行される。
墓前で一周忌が行われ、以後毎年六月十九日に『桜桃忌』と名づけられた会が催される。
弟子・田中秀光が太宰の墓前で自殺する |
参考文献
[1]小川原和世2008『週刊『日本の100人番外編』12号』株式会社デアゴスティーニ・ジャパン
[2]佐藤亮一1950『斜陽』新潮社201-206
[3]相馬正一1990『太宰治の生涯と文学』洋々社213-219
[4]筑摩書房編集部2009『女が読む太宰治』筑摩書房
[5]古田晁1958『太宰治全集第十二巻』筑摩書房
[6]山口俊雄2006『太宰治をおもしろく読む方法』風媒社220-224
[7]若菜正1990『人間失格』集英社196-205
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